マネージャーブログ

Oct 25, 2008

小島慶三先生を偲ぶ

10月19日、如水会館で「小島慶三先生を偲ぶ会」が行われた。
小島慶三先生は、エルンスト・フレドリッヒ・シューマッハーの『スモール・イズ・ビューティフル』を酒井懋氏とともに翻訳されている。この翻訳本が出版されたのが1986年。ノルドの設立の年である。その縁というわけではないが、スモール・イズ・ビューティフルの思想はノルド社会環境研究所の企業理念を支える重要な源流となっている。

偲ぶ会で配布された小島慶三先生の略歴をみると、改めて戦中、戦後を通じた官界、財界、学界、政界にわたる活躍とその業績の偉大さがわかる。

大正6年3月11日 埼玉県羽生市に生まれる。
昭和15年 東京商科大学(現一橋大学)卒業 卒論『本邦農村協同組合史論』。同年企画院入省、勤務の傍ら法政大学非常勤講師(農業政策)。
昭和17年 大蔵省出向 翌年、軍需省発足総動員局総務部勤務。
昭和22年 商工省(後に通商産業省、現経済産業省)大臣官房企画室勤務。緊急生産対策、物資需給調整、軍需工場の民需転換などに従事。
昭和24年 石炭庁国家管理準備室勤務。
昭和25年 物価庁機械金属課長。公益事業委員会監理課長兼調査課長。電気事業再編成、電源開発に従事。
昭和28年 通産省大臣官房調査課長。産業構造、産業動向調査に従事。
昭和30年 重工業局鉄鋼業課長兼製鉄課長。
昭和32年 経済企画庁調整局調整課長。
昭和34年 石炭局炭政課長。
昭和36年 公益事業局経理参事官等。炭鉱争議への対応や電力再編成など産業復興主要業務に従事。
昭和37年 日銀政策委員(経済企画庁を代表)。業務の傍ら、経済学にも造詣を深め、多くの大学の非常勤講師などを務める。
昭和38年 通商産業省審議官。退官。日本精工鞄社。取締役企画部長として海外の営業活動に尽力。昭和45年には専務取締役に就任。
昭和49年 日本精工鰍ゥら芙蓉石油開発鰍ノ派遣され、副社長に就任。
昭和53年 芙蓉石油開発椛纒\取締役社長に就任。(昭和59年まで)
この間経済同友会役員として理論的、政策的な活動に参加。こうした活動の中で、農業問題に深い関心を持ち、特に日本の「水田」の持つ多様な役割と重要性を訴えた。
「小島塾」を主宰し東京をはじめ全国各地で勉強会を開く。上智大学、成蹊大学、名古屋大学、一橋大学の講師として後進の指導に当たる。
「近代化研究所」を設け日本の近代化の基礎が江戸時代に築かれていることの研究を進め、「人間の顔を持った経済学」を説き『人間復興の経済学』を出版。
昭和56年 同志を糾合し「ヒューマノミックス研究会」を設立。
昭和59年 経済界から転じて、(財)日本立地センター理事長に就任。地域振興、農業振興、環境問題の重要性を説き、全国各地を訪れ、具体的な地域の取り組みに参画、指導に当たる。この間(財)日本テクノマート理事長を兼務。母校の(財)東京商科大学奨学財団の理事長として活躍。並行して、シューマッハーの『混迷の時代を超えて』『スモール・イズ・ビューティフル』を翻訳し、理論と実践の両面で目覚しい活躍。
平成4年 細川護煕氏の日本新党に参加、衆議院選挙に立候補。
平成5年 繰り上げ当選で活躍の場を政治の分野に広げ、1期5年間、国政の場でヒューマノミックスを旗印に、政治・経済・社会の改革、日本農業の自立や地方分権の推進を主張した。
平成6年 参議院院内会派「新緑風会」に参加。「新緑風会」命名。
叙勲 従4位 勲3等瑞宝章
趣味は、大学時代はボート部で活躍。その後はスキー、ゴルフなど発展期のスポーツや新しい体験に興味を示した。
また、伝統文化に通じ小唄を楽しみ、亡くなる直前まで「エッセイ集」や「句集」の発行を続けた。
平成20年8月30日逝去

「小島塾」は、上智大学の小島ゼミの卒業生らによる社会人ゼミとして始まったもので、最盛期には北海道から沖縄まで29箇所に広がっている。その最北端の小島塾が私の出身地である北竜町にあったというご縁もあり、数年前から知人の紹介をいただいて「東京小島志塾」に数回参加させていただいている。
小島先生がご高齢のため、2006年6月例会を最後にして、東京小島志塾を閉じられることになってからは、その志を継承するためのインターネット上のコミュニティサイト「小島志ネット」が開設されている。
http://www.kjknet.jp/index.html

小島慶三先生は、常々、文明の衰亡の原因は@自然環境の破壊、A社会システムの機能不全、Bモラルと内的意欲の喪失、と指摘されていたが、現代社会はまさにこの3つが同時に進行しているように思われる。一方、先生は「日本はまだ間に合う」ともおっしゃっていたという。希望を失わずに、先生の志を継いでいきたい。

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